こんな地獄だったら何度でも映画館に行きますよ  【ネタバレあり】

タンッ。タンッ。タンタンタン。
ぜんりょくはでぃしりれっつごー         じぃりじぃりはぎしりえっつふらい
ぼくのきもちははがゆいー                 ぜんりょくはでぃしりえっつふらい
ぜんりょくはでぃしりれっつごー         じぃりじぃりはぎしりえっつふらい
はならびががが はぎしりぎぎぎ
みんなではをみがこー イェーーーーイ

あーホントに楽しかった。って感想でもいいんじゃないかと思うんだけど。もう1つだけ。いやもう2つ、3つだけ言いたいことがあるから。ここに書いていきたいと思います。
この映画は基本的にはコメディとして描いているわけだから、その中で身体から血を流させる暴力がどのように描かれているかとかっていう話は、どうでもいいんですが(暴力によって流れる血の量に応じて、笑いのボルテージも増えていくような話なので笑)。この映画に対して気持ちいいと感じたならば……、この映画の最後に二階堂ふみ堤真一星野源も蜂の巣にされたときにカタルシスを感じたならば、その暴力の源流を遡っていったところに“作り手の暴力”を感じないことにはこの映画を見て楽しかったという誠意を示せないような気がしたので、そのことに対して1つか2つか3つ。
 さっきも言ったように、この映画に描かれている“暴力”は単純に、“暴力”=“身体を傷つける暴力”ということも言えるのですが、この映画の暴力はそれだけに非ず。星野源さん演じるドМ男と長谷川 博己さん演じる映画バカという交わるはずもない二つのエピソードを繋げるのは暴力団の「映画を作れ、作れなっかたら殺す」という暴力であるし、そもそも星野さん演じるドМとヤクザという対照的なものをくっつけたのは、ドSな二階堂ふみとドМな星野さん(そろそろくどいですよね)の間にある“暴力で繋がった恋心”であることにも、この映画の骨格に“繋ぎとして使われている暴力”があるということは何の秘密もなくて、<ドМが映画作りの重圧に耐えきれなくて逃げ出す>→<走りつかれてゲロを吐く>→<映画バカが十年前に神社に託したお願いが流れ出てくる>というストーリーに対して「それは強引だろ!!」とかといった野次は門前払いという映画の作りに、“作り手のスクリプトに対する暴力”を心地よく感じた私にはМっ気があるのかしら?とか、そんなことはホントはつゆほどどうでもよいことです……。
 映画表現のテクニックという面においてもこの映画のレベルの高さは、他の映画にも全然負けてなくて、特にメタな表現からくる倒錯はホントに気持ちよくきまってる。特に、ヤクザの抗争というホンマもんの修羅場を、演出を施し、カメラに収めること。本来ドキュメンタリーとしてフィルムに収まるべき被写体をフィクションとして写し撮るということ。ホラーを極限まで表現しようとするとコメディになるように、ふんだんに描かれている暴力も翻ってコメディとして受け取れること。幼い時の可憐な姿の二階堂ふみに惚れたぼんくらが成長して、ドSに成長した二階堂ふみに惚れるというドМの倒錯的な性的嗜好の成長と、親の期待を一身に受け可憐にCМで踊っていた少女が、成長してぐれるというお決まりだが倒錯的な成長。などなど、この映画の中と外にある倒錯は本当に爽快だ。ドストレートなものから、構造の中に組み込まれたものまで多種多様でそれだけでも飽きない。“暴力と、結果的に、倒錯的に顕われるその末路を描いた濃厚な2時間”を胸いっぱい楽しめること間違いなしな作品でした。
 最後もとても考えられた(といったら園監督は褒め言葉として受け取ってくれるかしら?)カットでしたね。映画の中のテンションと観ている側の「もう終わってしまうのか」というアンニュイなテンションの差。さらには、作る側における、ワンカットの中で俳優が発散するテンションと、カットが切れた時に、製作スタッフが冷静に次のカットの準備に取り掛かっていく制作現場の雰囲気の差が、ワンカット内の時間の移行と共に表現されていて、それぞれ違う立場の人間が同じ媒介を通したときに生じるテンションの差(『冷静と情熱の間』という映画が懐かしいですね笑)がやはり一種の倒錯として表現されている、とても稀有なラストだったと思います。

 


  
 

     最後に。
こんなに楽しい映画が、私の地元の映画館では、平日レイトショー0:00終演ということを差し引いても5人というキリの良さが逆にさみしさを感じさせるような観客の中、上演されていたことは僕にとっては悲しい限りだけど……それが現実なんだからしょうがないなぁ。『園監督ーーー!!たった5人の観客でも、終演後は、スポーツ中継のパブリックヴューイングさながら異様なテンションの高さで劇場が満たされてましたよーーーー!!!!』